* * *
フェリシアは家を守ろうと必死に魔に抗う。
しかし、魔が欲シイ、と最大限にフェリシアの精神に強く声を響かせ、腰を縛る力を更に強くした。
そして、ぐあっと嘴(くちばし)を大きく開け、再び体を乗っ取ろうとする。
自分の声など届くはずもないと分かっている。
けれど、
「ご主人さま、帰ってきてっ…………」
そう、声を絞り出し、右目から一筋の涙が流れた。
すると、その声に答えるように。
「フェリシア!!」
自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
月のように美しい銀の長髪。
コートを両手を通さずに羽織り、結界を張ったエルバートが、
一点の光る道に立ち、こちらを見据えている。
今まで一度も自分の声など届くことはなかった。
けれど初めて自分の声が届いた。
(ご主人さまが帰って来てくれた――――)
そう熱いものが込み上げてきた時だった。
魔の目線がエルバートに向けられ、外側の両髪をまるで、大きな口を開けて食べるように放った。
エルバートは剣に手をかけ、瞬時に鞘から抜き、髪先を素早く斬って浄化する。
しかし、魔の左手が首を締めようと、ぐあっと伸び、エルバートに襲い掛かる。
エルバートは続けて左手も斬り、浄化した。
すると魔は邪気で結界ごとエルバートを潰そうとする。
しかし、エルバートは結界で邪気を跳ね除ける。
魔はこちらに来させないよう、邪気で道を塞ぐ。
その邪気をクォーツが弓矢でラズールが剣で浄化し、ふたりはそれぞれエルバートに声を掛けようとするも、エルバートが放つ冷たい気と冷酷な軍人の顔の、祓いの神のような姿に恐れをなして立ち尽くす。
そしてエルバートは駆け走り、祓いの力で高く跳び上がった瞬間、烏の仮面を剣で真っ二つに斬った。
すると半面が浄化され、魔は混乱し地面に倒れ込む。
「フェリシア様!」
ディアムとリリーシャが叫び、ディアムが鞘から剣を抜き、リリーシャも持っている剣でフェリシアの腰に巻き付いている両内側の髪を斬って浄化し、
ディアムがフェリシアを引っ張り上げ、リリーシャが受け止め救出して地面に寝かせる。
そして、フェリシアの救出を見たエルバートは冷たい気を放ちながら、剣を持つ右腕を引き絞り、両足を前後に開き、フェリシアから貰ったブローチに左手で触れ、その手を剣先の下に添え、魔に向けた剣先から祓いの力を放った――――。
爆音が全体に響き渡り、
魔は光と共に消し飛び、ブラン公爵邸の壁の一部が吹き飛んだ。
その直後、邪気に覆われた夜のような中庭の景色が一変し、
春の明るく緩やかな日の光が差し込み――、絶景が広がった。
「フェリシア!」
エルバートが叫び、フェリシアに駆け寄り、抱き起こす。
「ご主人、さま……」
「ネックレスを失くして、申し訳……」
エルバートはフェリシアの言葉を遮る。
「もういい、謝るな」
切なげな表情のエルバートに、
フェリシアは自然と笑みを浮かべた。
「家を、守れて、よかった…………」
* * *
エルバートの瞳に緩やかに両目を閉じていくフェリシアの姿が映る。
エルバートは意識を失い、両瞼を閉じたフェリシアを強く抱き締めた。
乱れた髪、汚れたドレス、そして腰を魔に縛られた影響で、
フェリシアの全体が邪気に覆われ、両手は氷のように冷たい。
祓いの力のないフェリシアは自身の命を懸けて、必死にこの家を守ろうとしたのだろう。
――――彼女の笑みを初めて見た。
こんな穏やかな表情で笑うのだな。
エルバートは祓いの力を使い、フェリシアの全体を覆う邪気を祓った。
そうしてフェリシアの両手に触れる。
暖かい。
体温が戻ったようだ。
これで大丈夫だな。
エルバートは安堵し、フェリシアをお姫様抱っこをして立ち上がる。
すると、ディアム、ラズール、クォーツ、リリーシャが帰宅と敬意を込めて、それぞれ胸に手を当て、頭を軽く下げた。
エルバートは魔除けコートの裾を靡(なび)かせながら歩いていき、
フェリシアと共にブラン公爵邸の玄関から中へと入って行った。
* * *エルバートはしゃがみ、ベットに寝かせたフェリシアの手を握り締める。寝室に勝手に入ってしまったが致し方無い。少しでも帰宅が遅れていたら、彼女の命はなかっただろうと思うと胸が痛む。「フェリシア、今少しの間、このままでいさせてくれ」こうしてエルバートは暫(しば)し彼女との時を過ごした後、ディアム達を書斎(しょさい)に集めた。エルバートは椅子に座り、目の前の机に組んだ手を乗せ、向側(むこうがわ)に立つディアムからフェリシアが中庭に出た経緯をまとめた話を聞く。「フェリシア様自らリリーシャに手伝いをさせて欲しいと申し出て、ラズールに図書室までの案内をされ扉の鍵を開けてもらい、図書室の掃除を終えた後、初対面のクォーツからエルバート様のお気に入りの花を勧められ」「フェリシア様はその花を摘み、リリーシャに渡そうと台所に向かった際に魔除けのネックレスを落としたことに気づき、花だけを長机に置いて中庭へと戻り、ネックレスを探していたところ」「フェリシア様が結界に近づいた事により、結界が何かと干渉をしたのか、フェリシア様がおられる一角だけ結界が弱まり、魔が結界を破ることができ、フェリシア様は魔に襲われてしまったようです」エルバートは右手で顔を覆う。(まさか私の為に花を摘み、命を失いかけたとは)「フェリシア様の手伝いを断ればこんなことには……」リリーシャが謝ろうとすると、クォーツが止め、続けて口を開く。「エルバート様、中庭に落ちていた魔除けのネックレスにございます。花に埋もれておりました」クォーツがそう伝えると、エルバートは顔を覆うのを止め、魔除けのネックレスをクォーツから手渡しで受け取った。クォーツは後ろに下がり、ラ
* * *「あの、ご主人さま、今から晩ご飯の支度を……」夕暮れ時になる前に目覚めたフェリシアはベットの上で起き上がりながら、エルバートに話しかける。ドレスは寝ている間にリリーシャに着替えさせたとエルバートから先程聞いたものの、まさかご迷惑を掛けた身でこんな時間まで気を失っていただなんて。魔に髪で縛り上げられていたせいで腰はまだ少し痛むけれど、晩ご飯は作らなくては。「支度の必要はない。晩ご飯ならここにある」「リリーシャが作ったものだ。さあ、飲め」エルバートはミルクと野菜のスープをスプーンですくい、口に運ぶ。「あ、あの!?」「なんだ? 冷ました方が良いか?」エルバートは息を吹きかけようとする。「そ、そのままで大丈夫です」フェリシアが口を開けると、エルバートはスプーンを中に入れ、スープを飲ませる。(雲の上のような人になんて恐れ多いことを!)そう恐縮し、目のやり場に困り、スープの入った器を見ると、隣にブルーの花が添えられていた。「あ、その花……」(ご主人さまがお気に入りの……)「私の寝室の花瓶に飾る花を摘みに中庭に出たそうだな」「は、はい、申し訳ありません」「もういい」エルバートはそう言い、フェリシアの首に魔除けのネックレスを付ける。「魔除けのネックレス、見つけて下さったのですか?」「クォーツがな」「そうですか、ありがとうございますとお伝え下さい」「分かった、伝えておく。それからこれも」エルバートはフェリシアに宝石が上品に輝くリボンのような形をしたシルバーの髪飾りを見せる。その髪飾りには2本の三日月の形をした綺麗な垂れ飾りも付いてい
* * *その夜のこと。ブラン公爵邸の居間は凍りついたような空気に覆われていた。エルバートの母であるステラ・ブランが馬車で執事と共に駆け付けてきたからだ。腰が少し痛むフェリシアとエルバートの真向かいに座るエルバートの母は美しく、キリッとした表情でエルバートを見ている。エルバートの父は公務で忙しい方らしく、執事とふたりでここ に駆け付けてきたのだとエルバートと玄関で出迎えた際に彼女からすでに聞いており、エルバートによると、母だけでも厄介で、マナーに厳しい方らしく、面倒そうな顔をした後、 気をつけろ、良いな? と居間に入る前に念を押された。けれど、令嬢でもない自分がこの場に同席しているだけでも、すでにマナー違反な気がしてならない。「エルバート、ブラン公爵邸が魔に襲われるだなんて、一体、 どういうことなの?」エルバートの母が怪訝な顔で尋ねる。「魔が私の力を上回り、一部の結界が破られ、入り込まれた」「よって、今後は結界をより強化し、ブラン公爵邸を守っていく。それだけのことだ」「母上にご足労頂くことも、もうない」「そう」エルバートの母は冷たく返すと初めてフェリシアを見る。「貴女が花嫁候補のフェリシア・フローレンスさん?」「は、はい」エルバートの母は、にっこりと笑う。「単刀直入に言うわ。エルバートに婚約破棄をさせるから今すぐここから出て行って頂けるかしら?」フェリシアは固まり、エルバートは表情を崩さない。「エルバートには、こちらのアマリリス・シェリー嬢とご婚約して頂きたいの」エルバートの母は鞄から新聞のようなものを取り出し、スッと差し見せる。(わ、綺麗な人……)「よって、こちらの事情も兼ねて、貴女には良い額を支払う
“婚約破棄はお受け出来ません、ここも出て行きません”フェリシアの強き覚悟の言葉にエルバートは両目を見開く。その直後、パシャッ!机に置かれていたグラスのワインをエルバートの母の手によって掛けられた。(あ、ご主人さまに仕立てて貰ったドレスが汚れて……)「私になんて物言いなの!? 身分をわきまえなさい!」「エルバートのご婚約はこちらで進めますからその心づもりで」エルバートの母は椅子から立ち上がり、居間の扉からスタスタと出て行く。「奥様! お待ち下さいませ!」「ステラ様、玄関までお送り致します!」エルバートの母の執事とラズールの声が廊下から続けて聞こえ、やがて静かになるとエルバートはフェリシアを見るなり、息を吐く。(ご主人さま、確実に怒っていらっしゃるわ。謝らなくては)フェリシアは椅子から立ち上がり、腰に少し痛みを感じながらも床に跪く。「ご主人さま、せっかく仕立てて頂いたドレスを汚してしまい申し訳ありません」「お母さまに対しても、あのようなおこがましい発言をしてしまい、大変申し訳ありません」「ですが、ご主人さまからの婚約破棄ならば仕方ありません」「ご命令に承従(しょうじゅう)し、今すぐここから出て行きます」エルバートは椅子に座ったまま、フェリシアを見据える。「ならば、命じる」(ああ、ついに婚約破棄されてしまう――――)「婚約破棄はしない、ずっとここにいろ」エルバートの命令の言葉に驚いて、声も出ない。「聞こえなかったか?」エルバートは椅子から立ち上がり、跪くフェリシアの前にしゃがむ。「私がフェリシアにここで共に暮らして欲しいんだが?」フェリシアが号泣すると、エルバートはフェリシアを抱き締める。「ご主人さまっ、ワインが付いて……」「問題ない」
「エルバート様、どうなされたのですか!?」「はあ、フェリシア、今日も待っていたのか」「待たなくていいといつも言っているのに」確かに会話が減っている中で、エルバートはその言葉だけは常に口にしていた。きっと自分のことを気遣ってそう言い続けてくれたのだろう。なのに、胸がきゅっと痛む。「エルバート様、それはあんまりです。フェリシア様が毎日どんな想いでお待ちになられていたか分かりますか!?」「リリーシャさん、良いですから」「それより、一体何があったのですか?」「母上から宮殿に通達があり、私の生家であるブラン伯爵邸が魔に襲われ、現在、父上が庭で抗戦中とのことで助けて欲しいと頼まれた」フェリシアは両目を見開く。(ご主人さまの両親の家が魔に!?)「そして、フェリシア、命懸けで私の家を守ったお前にも来て欲しいとのことだ」「え、なぜそれを……?」「帰る際に玄関でラズールから聞いたそうだ」「正直、お前には家にいて欲しい。危ない目に合わせたくはない」「だが、私が必ず守ってみせる。だから共に付いて来てくれるか?」フェリシアは自分の胸に手を当て、強い眼差しをエルバートに向ける。「はい、お供させて頂きます」* * *その後、エルバートがリリーシャにクォーツとラズールを呼びに行かせ、全員に留守の間、ブラン公爵邸を守るように頼み、皆が承諾すると、フェリシアはエルバートと玄関から外に出て、ディアムが御者を務める馬車に乗り、エルバートの生家、ブラン伯爵邸に向けて馬車が動き始める。(どうか、おふたりとも無事でいて)フェリシアはそう馬車の中で強く願い続け、森を抜けて並木道を走り――、しばらくして緩い坂を昇った先にあるブラン伯爵邸の大きな門の前で馬車が停車した。エルバートが差し出した手に自分の手を添え、馬車を降りる。そしてディアムが施錠されていない門を
すると煌びやかな広間のソファーに華やかな女性が座っていた。その女性はエルバートの母から以前見せてもらった新聞のご令嬢に似ており、フェリシアは息を呑む。「アマリリス嬢、なぜここに?」エルバートがそう問いかけ、もしかして、と心の中で一瞬思い浮かべたアマリリスの名が確信へと変わり、本物のアマリリス嬢なのだと理解した。「テオお父様に呼ばれましたの」アマリリス嬢が答えると、エルバートの母の執事が口を開く。「旦那様、エルバート様がご帰省なされました」広間は静寂に包まれ、コツ、コツ、と重い足音が響き渡る。マントを靡かせ、貴族服を着た凛々しき男性、エルバートの父であるテオ・ブランが中に入って来た。髪は長くないものの、エルバートと同じく、美しい銀色の髪をし、顔もエルバートによく似ている。「エルバート、やっと帰省したか」「父上、これは一体どういうことだ?」「私を騙したのか」エルバートは冷ややかな強い気を放つ。しかし、エルバートの父は動じない。「こうでもしないと、お前、帰省しないだろう?」「同じ伯爵の身分だった時はここで共に暮らしていたが、戦闘での活躍が認められ、公爵の位をもらい、家を出て屋敷を構えたきり一度も帰省しなかったお前が悪いのだ、反省しろ」「ご主人さま」フェリシアが声をかけると、エルバートは冷静になる。そして何食わぬ顔をして中に入って来たエルバートの母を一瞬、睨む。「虚言だと分かった以上、すぐにでもこの場を離れたいところだが」「ここまでして私を帰省させた誠の目的はフェリシアだったのだな」(え、わたし……?)「エルバート、さすがは察しが良いな」「フェリシアさんに一度会いたく、お前に連れてこさせたのもあるが、1番はお前の花嫁候補を、この家の当主である、テオ・ブランが正式に決める為だ」エルバートの父の目的を知っ
――そして、まずはエルバートとアマリリス嬢が踊ることとなり、不安げなフェリシアの袖を掴む手に触れ、見えないように優しく下ろすと、エルバートはアマリリス嬢の元に向かう。すると、エルバートの父が広間に軍楽隊を呼び、その弦楽器の美しく優雅な演奏と共にふたりは踊り始める。エルバートの踊る姿を初めて見たけれど、惚けてしまうくらい美しく、かっこいい。それにアマリリス嬢も引けを取らず、エルバートと息がぴったりと合っている。(雲の上のようなおふたり。ほんとうに絵になるわ…………)やがて、アマリリス嬢とエルバートが踊り終え、フェリシアはエルバートの元まで歩いていき、向き合った状態で足を止める。けれど、緊張で足がすくんでしまう。(せっかくクォーツさんにダンスの特訓をしてもらったのに。こんな足でちゃんと踊れるかしら…………)そう、足に目線を向けながら不安に陥った時だった。「……フェリシア、こちらを見ろ」エルバートに小声で話しかけられ、顔を見る。それだけで不安が一瞬にして消えた。「……私がリードする。だから安心して身を任せろ」「……はい」同じように小声で返すと、エルバートが手を差し出す。フェリシアはその手に自分の手を添えた。それを合図にアマリリス嬢の時と同じ軍楽隊による弦楽器の優雅な演奏が始まり、共に踊り始める。そうして少し慣れた頃、エルバートの手が腰に触れ、顔がぐっと近づく。お互いに見つめ合うと、離れ、踊り続ける。ほんの一瞬顔が近づいただけなのに、顔が熱い。(リードするってご主人さまおっしゃっていたけれど、こんなの身が持ちません)そう思いながらも、不思議と嬉しさの方が勝る。
フェリシアは左側から席に着き、ナプキンは2つに折り、輪を手前にして膝にかけて待つ。するとやがてエルバートの母の執事による豪華な肉料理のフルコースが始まり、白ワイン入りグラスは親指から中指の3本で持ち、薬指で固定して飲み、バラの花びらのような生ハムトマトの前菜はナイフとフォークを外側から使い、美しさを楽しむよう、いっぺんに崩さないように左側から少しずつ食べ、クリームスープはスプーンを手前から奥へ動かしてすくい、パンは手で一口大にちぎり、そのパンに少しずつバターをのせて食べ、肉料理である牛フィレのパイ包み焼きは左側の端から食べやすい大きさに切りながら頂き、デザートの華やかなケーキは固かった為、ナイフで切り、食事が終わると、ナイフとフォークを揃え、皿の右下へ置き、ナプキンはテーブルの右側へ無造作に置いて、左側から退席した。こうして、食事マナーも無事に終え、最後の料理作りとなり、フェリシアはアマリリス嬢と共に広間から台所へとエルバートの母の執事に案内され、それぞれビーフシチューを作り始める。ブラン伯爵邸の台所もまた厨房のように広かった。食事マナーを終えた時、エルバートとディアムは見守ってくれていたけれど、エルバートの両親、アマリリス嬢はまたどこか驚いた様子だった。きっと上手く出来ておらず、呆れていたのだろう。そして最後の料理作りは毒や不正が働くのを考慮し、先にディアムとエルバートの父の側近、続いてエルバートとエルバートの母が順に食べ、最後にエルバートの父が食べることになった。だから、(料理を教えてくれたリリーシャさん、そして何よりこのビーフシチューの料理を認めてくれたご主人さまに決して恥をかかせる訳にはいかないわ)そう思っていると、アマリリス嬢が話しかけてきた。「フェリシア様はやはりお料理手慣れていらっしゃるわね」「え?」話しかけられると思っていなかった為、フェリシアは驚く。
「フェリシア?」呼びかけられ、ハッと我に返り、後ずさると、壊れた鮮やかなブルーのブローチがドレスのポケットから床に落ちる。「あっ」短く声を上げ、エルバートがそのブローチを拾う。「これは両親の形見のブローチか?」「は、はい……懐かしくなり、久しぶりに持ち歩いておりました」「出会って間もない頃、お前から壊れたと聞いていたが、この壊れ方。ローゼに割られでもしたか?」(まさか、今になってバレるだなんて……)フェリシアが頷くとエルバートは息を吐く。「そうか、ではしばらくこれは預かる。良いな?」(ご主人さま、怒ってる? ずっと黙っていたせいかしら……)「か、かしこまりました……」「それからフェリシア、出立する前にお前と出掛けたい」「え?」フェリシアは短く声を出して固まる。「私と出掛けたくないか」「と、とんでもありません! その、驚いてしまって……」「ご主人さまが宜しければ、わたしもお出掛けしたいです」エルバートはふっ、と笑い、頭をぽんっと優しく叩く。「では、出掛けよう」* * *そして、出立の一週間前の午後。エルバートがようやく半日お休みをもらうことができ、フェリシアはお洒落をし、一緒にお出掛けすることになった。けれど、ディアムが横で手綱を持ち支えているエルバートの高貴な馬の前で固まる。いつもお勤めの際にお乗りになられるエルバートの馬を間近で見るのは初めて。なんてご立派な馬。(馬で一緒に行くことは事前に聞いていて、こっそり、クォーツさんと練習はしていたけれど……)不安で仕方ない。それに緊張で手汗がすごい。「フェリシア、馬に乗るのは今日が初めてだったな。乗るのが怖いか?
* * *記憶を取り戻してから一週間が経つ朝。フェリシアは髪を一つにくくり、高貴な軍服姿をしたエルバートと居間で会う。けれど、記憶を取り戻してから、エルバートの正式な花嫁候補になったという自覚が強くなり、目を上手く合わせられない。「今日は挨拶してくれないのか」(…! ご主人さまがわたしの挨拶を待っている!?)フェリシアは目をなんとか合わせ、挨拶をする。「ご主人さま、おはようございます」「あぁ、フェリシア、おはよう」エルバートは手をフェリシアの頬に当て、優しく微笑む。(こんなの、まるで、新婚さんのようだわ)* * *その後、しばらくして、エルバートは高貴な馬で宮殿入りし、皇帝の間へと向かう。今日はルークス皇帝にお呼び出しされているというのに、(フェリシアが目をあまり合わせてくれないものだから、今朝はやり過ぎてしまった……気を引き締めなければ)皇帝の間の扉が門番により開かれ、髪を一つにくくり、高貴な軍服姿のエルバートは中に入る。すると、王座の階段の前に何者かが立っていた。床に敷かれた長いレッドカーペットの上を歩いて行くと、王座の階段の前に立つ高貴な軍服を着た者の姿が鮮明となった。この気高き壮年の男はクランドール・ホープ。自分より3歳年上の先輩にあたる軍師長で、自分とは違う軍を束ねており、司令長官を任された際には特に頭が切れ、とても頼りになる存在だ。「エルバート、久しいな。姿を見ない間に正式な花嫁候補まで作るとは成長したな」まさか、ルークス皇帝が玉座から見ておられる前でそう言われるとは。恥ずかしい。「クランドール閣下には敵いませんが、お褒め頂き、光栄にございます」「ふたりが再会でき、何よりだ。ではこれより本題に入る」ルークス皇帝にそう命じられ、エルバート達は並んで跪き、見据える。「帝都郊外の神隠しに合うと恐れられた森にて前皇帝の命を
* * *こうして、翌日からエルバートが早く帰ることはなく、ブラン公爵邸に帰って来てから気づけば、一ヵ月になり、その日の夜は何故か眠れず、フェリシアは居間のソファーに一人で座ったまま、ふぅ、と息を吐く。すると、エルバートに自分の名を呼ばれ、ハッとする。いつの間に居間に入って来たのだろう?足音さえ、気付かなかった。(大丈夫だと言ったくせに、こんな姿を見せては元も子もないわ)「あ、どうなされたのですか? もしかして眠れませんか?」「いや、私は家の見回りをしていただけだ」(家の見回り……魔が入ってわたしが襲われないように?)勤務でお疲れなのに、そこまで気を遣わせていただなんて。「あの、今、お飲み物を……」「必要ない。それより、支度をしろ。今から出掛ける」出掛けるって、こんな夜遅くに?(もしかして、自分に嫌気がさして、捨てられ……いいえ、きっと大丈夫)「かしこまりました」そう了承し、支度が完了すると、ディアムが御者を務める馬車に乗り、お互いに無言のまましばらくの時が流れ、辿り着いたのは、広がる海に白く美しき花が咲き誇る場所だった。(エルバートさまにお姫様抱っこされ来たけれど、とても綺麗な場所…………)もしかしたら、ここはディアムから聞いていた……。「お前を特別な場所へ連れて来たのは2度目だな」「1度目はお前と帝都の街に行った帰りにここへ連れて来た」(あぁ、やはり、記憶を失くす前のわたしと来た特別な場所だったのね…………)「そう、なのですね」「――だが、この木の前に連れて来たのは初めてだ」エルバートはそう言い、たくさんの蕾を付けた大きな一本の木の前でフェリシアを下ろす。(エルバートさまは、記憶を失くす前のわたしも、今のわたしさえも大事にして下さっている)「もうじき、深夜だな。見ていろ」フェリシアはエルバートと共に大
* * *エルバートは執務室の椅子に座りながら、ハッとする。なんだ? このただならぬ気配は。医務室か?エルバートは執務室から飛び出し、ディアムと共に医務室へと駆け付ける。「何があった?」エルバートは見張りの兵に問う。「エルバート様! 医師が寝室までルークス皇帝のご様子を見に出られ、見張りを続けていたところ、医務室内で邪気が発生し、扉が開かず、只今、入室出来ない状況でございます!」「そうか、退いていろ」エルバートは扉に右手を当て、祓いの力を使い、くくった長髪が靡くと、扉を勢いよく開ける。すると床に倒れるフェリシアの姿が両目に映った。「フェリシア!!」エルバートは叫ぶと同時に駆けていき、フェリシアを抱き起こす。魔はいないようだが、魔に弾き飛ばされ触れた箇所から邪気が溢れ、体全体を邪気のようなものに包まれているようだ。エルバートはフェリシアを抱き起こしたまま祓いの力を使う。するとフェリシアの頭痛は治まり、楽になったようだった。(……? 何かを持っている?)エルバートは両目を見開く。「これは私が帝都で渡したブレスレット……」恐らく、中庭の時にネックレスを失くしたのと同じくブレスレットを失くし、探す為にベットから一人で下りたのだろう。エルバートは切なげな顔をする。「もう私のことを思い出そうと頑張らなくていい」エルバートはフェリシアの左腕にブレスレットを付けて持ち上げ、ベットまで運び、寝かす。それから椅子に座るとフェリシアが、か弱き声で発した。「…………花が、見たい」その言葉で、エルバートは希望を感じた。(もしかしたら、私の記憶はフェリシアの心の奥底に残っているのかもしれない)そして、もう一度、あの咲く花を彼女と共に見れたなら。「――あぁ
* * *それからこの日を境にフェリシアは落ち着くまでブラン公爵邸に帰宅させることは出来ないと、祓いの力を持つ医務室の天才医師に診断され、しばらくの間、医務室で治療を受けることとなった。その為、エルバートとディアムも宮殿で寝泊まりすることになり、エルバートからリリーシャ達にその皆を伝えるように命じられたディアムは一旦馬で帰り、自分のせいで、ふたりに多大な迷惑を掛けることになった。早く思い出さなければ。そう思ったフェリシアは医務室に戻って来たディアムに密かに頼み、エルバートが執務で忙しい時に、アベル、カイ、シルヴィオに医務室まで来てもらい、エルバートのことを聞いた。「軍師長の様子なら、執務に集中出来ていない感じですね。着替えもせず、髪もくくったまま、フェリシア様のことばっか考えてますね」「カイ、そんなふうに言ったらフェリシア様が気にするだろう?」「フェリシア様、申し訳ない。でもまあ、フェリシア様が初めてだな、エルバートに色々な顔をさせるのは」アベルに続いて、シルヴィオも口を開く。「冷酷な鬼神だったのに今は惚気ているな」「誰が冷酷な鬼神だ」エルバートがそう言って医務室に入ってくる。「おかしいと思って来てみれば、さっさと出て行け!」エルバートに命じられ、アベル達はフェリシアに会釈をして医務室から出ていった。その後は毎日少しずつディアムからエルバートのことを聞いた。エルバートがフェリシアの家にご婚約の手紙を届けたことからブラン公爵邸で暮らすことになったこと、普段は月のように美しい銀の長髪を流したままなこと、ビーフシチューがお好きなこと、ご主人さまと呼んでいたこと等、これまでの日々のことを。けれど、思い出すことが出来ず、エルバートのことを朝も昼も夜もずっと考え続け、いつしか、8日目の夜になっていた。宮殿のお料理は病人食とは言え、どれも自分には高級で美味しい。けれど早く帰り、自分
* * *――――フェリシアをエルバートとの婚約の意を含めた“正式な花嫁候補”とする。医務室にいるフェリシアの心にルークス皇帝のお言葉が響く。まるで呼びかけられているよう。頭に包帯を巻いたまま、ベットから上半身を起き上がらせ、その身をディアムに支えられながらも、その声に触れるように、そっと自分の胸に両手を重ねる。するとなぜだか分からないけれど、自然と涙が溢れ出た。フェリシアはそのまま、ルークス皇帝のお言葉を聞き届けた。* * *客間でルークス皇帝のお言葉を聞き届けたエルバートは唖然と立ち尽くす。まさか、軍師長の座だけでなく、フェリシアをも守って頂けるとは。エルバートの父と母、そしてアマリリス嬢は絶句し、光がすぅっと消えると、ルークス皇帝の側近は手紙を懐に入れ、口を開く。「ルークス皇帝のお言葉は以上となります」「ならば、帰る」エルバートの父がそう言い、ソファーから立ち上がる。それを見た母とアマリリス嬢も続けて無言で立ち上がった。「では、私が宮殿の出入り口までお送り致します」ルークス皇帝の側近がそう言って扉を開け、エルバートの父と母はエルバートがこの場に存在していないかのような態度で客間から出ていき、アマリリス嬢もふたりに続いて出て行こうとする。しかし、立ち止まり、エルバートを見つめた。「エルバート様、お幸せに」アマリリス嬢は涙を浮かべながら笑顔を見せ、お辞儀をして客間から出て行く。これで、フェリシアはブラン公爵邸から出て行かずとも済むのだな。「ルークス皇帝、恩に切る」エルバートはそう感謝し、顔を右手で覆う。そのまま少し時が過ぎると、フェリシアがいる医務室へと向かった。* * *フェリシアはディアムに心配されながらも医務室のベットで起き上がったままでいた。すると医務室の扉が開かれる音が
「フェリシア様が記憶を喪失してしまわれるだなんて……」アマリリス嬢が動揺した声を上げると、エルバートの父は右手で顔を覆う。「ルークス皇帝までも上回る魔の出現だと?」「そしてルークス皇帝を危険に晒したとなれば軍師長の座を降ろされるのは間逃れないか」「旦那様……」エルバートの母が声をかけ、エルバートはアマリリス嬢を見る。「よって、フェリシアの記憶喪失、そして一時とはいえ、ルークス皇帝を危ない目に合わせてしまった私はまだ未熟である為、アマリリス嬢とのご婚約は破棄させて頂きたく思います」アマリリス嬢が両目を見開くと、エルバートの母が怒りの声を上げる。「ご婚約を破棄するですって!? エルバート、どれだけブラン家に泥を塗るおつもりなの!?」「そもそも、本日の魔の出現はフェリシアさんが原因ではなくて?」「ブラン伯爵邸の付近に魔が出現したのだって、フェリシアさんが訪れた日だったもの。間違いないわ」「だからこれ以上、フェリシアさんとエルバートが関わることを私は決して認めなくてよ」「それに、貴方のことを忘れたのなら丁度良いじゃない。あんな不吉なお人など責任を全て負わせ、今すぐお捨てなさい」「そして、エルバートには旦那様がお決めになられた通り、2日後、アマリリス嬢をブラン公爵邸に住まわせ」「アマリリス嬢と正式にご婚約して頂くわ」エルバートの母がそう啖呵(たんか)を切った。「どこまでフェリシアを愚弄すれば気が済む」エルバートはとてつもない冷ややかな殺気を放つ。まさに、その時だった。失礼致します、と皇帝の側近が扉を開け、中に入って来た。「ルークス皇帝により直々にお言葉を頂戴致しましたので伝達に参りました」「このお言葉は皇帝専用の医務室におられるフェリシア様、ディアム様にも伝わるようになっております」ルークス皇帝がお言葉を?
フェリシアの言葉を聞き、エルバートとルークス皇帝は両目を見開く。まだ混乱している、のか?「フェリシアよ、我のことは分かるか?」「ルークス皇帝……?」ルークス皇帝のことは分かるようだな。「フェリシア、私はエルバート・ブランだ」「エルバート・ブラン?」フェリシアはその名前を口にした瞬間、頭痛が起きて意識を失い、くたっとなった。「フェリシア!!」エルバートは叫ぶ。「エルバートよ、これより酷な事を言うが」「フェリシアの身体は大事ないようだが、どうやら頭を打ちつけたこと、そして魔の影響で一部の記憶を」「お前の記憶を喪失したようだ」エルバートの瞳が揺らぐ。まさか、そのような、嘘だろう?エルバートは切なげな顔でフェリシアを強く抱き締める。「フェリシア……」その後、皇帝の間に皇帝の側近、ディアム、兵達が駆け入り、ルークス皇帝が魔に襲われエルバートと共に浄化したことを伝え、念の為、ルークス皇帝も共に皇帝専用の医務室へ行くこととなった。そしてルークス皇帝とエルバートは大事なく、フェリシアは頭に包帯を巻き、ベットで安静となると、エルバートはルークス皇帝の前に跪く。「ルークス皇帝、責任を取り、私は軍師長を降ります」「エルバートよ、その必要はない。軍師長を辞める事は、許さん」「しかし……」「ただ、このままでは示しが付かないと我の側近が不祥事としてお前の両親に通達をした」「もうじき、宮殿に来るによって対面し、起こった事を全て伝えることとなる。良いな?」「承知致しました」* * *やがて、エルバートの父であるテオと母のステラ、そしてアマリリス嬢が馬車で宮殿に到着し、客間に案内され、待機の状態になったとのことで、エルバートはディアムにフェ
* * *「フェリシア!!」エルバートの悲痛な叫び声が皇帝の間に響き渡る。フェリシアが魔に弾かれた時、彼女の口元が微かに動いたように見え、お ま も り で き てよ か っ たそう言っているように思えた。恐らく、フェリシア自身は気付いていない。心の中で思った言葉が自然と口に出たのだろう。エルバートはフェリシアの元に駆けようとするも、ルークス皇帝の姿が目に入り、ぐっと堪える。フェリシアを今すぐにでも助けたい。だが、(私はルークス皇帝に仕える身。ルークス皇帝を優先に守らねば)エルバートは切なげな顔を浮かべる。すまない、フェリシア。少しの間、待っていてくれ。エルバートは冷酷な顔で剣に手をかけ、抜く。「魔め、フェリシアをよくも!」「ルークス皇帝には触れさせない」魔は袖の中で左右の手を合わせ礼をする仕草から両袖をバッと広げ、少し見えた左右の手から黒き液体のような炎を無数に放つ。エルバートはその炎を瞬時に斬り、浄化していく。だが、一部の炎が軍服の袖を少しかする。すると袖が少し溶けた。袖だけで済んだが、この炎は触れたものを全て溶かすらしいな。魔は炎を放ち続け、エルバートも斬り、浄化し続ける。「くっ」これではキリがない。そう思った時だった。神の憤りのような物凄い気迫を感じた。すると魔も感じ取ったのか固まる。「エルバートよ、我と共闘せよ」玉座から立ち上がったルークス皇帝が気迫を放ちながら言い、玉座の踏段を凛々しい光を司る神のような姿で下りてくる。そして、エルバートの隣で剣を抜く。「今から詠唱を唱える」「お前にも詠唱の言葉を脳裏に流すによって、続けて唱えよ」「はっ! ルークス皇帝の仰せのままに」エルバートがそう答